2021年8月21日 星期六

大倉集古館;「The Okura Tokyo」;大倉家、Hotel Okura, Tokyo

 


大倉邸の美術館」 明治を代表する実業家の一人、大倉喜八郎(1837 - 1928 号は鶴彦、家紋は五階菱)は、産業の振興、貿易の発展に尽力した一方で育英、慈善事業、文化財の保護などにも功績を残した。喜八郎は、50余年に渡って多数の貴重な文化財を蒐集し、当初それらを私邸で知人たちに公開していた。当時の様子は、『風俗画報』(1903年7月10日号)に掲載された、「大倉邸美術館内の圖」(山本松谷画)などによって知ることができる。大正6年(1917) には、私邸の敷地の一角に日本で最初の私立美術館、財団法人大倉集古館を開館させた。鶴と菱形紋が描かれている。— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「大倉邸の美術館」より抜粋[16]


大倉集古館[編集]

The Okura Tokyoやオークラ スクエアの整備の関係から大倉集古館は約6m曳家され[10]、地下を増築して収蔵庫を新設し、これまであった霊南坂側の塀は取り除かれた[20]。誰でも気軽に入ることができる、より開放的な空間が創出され、界隈の防災拠点としての役割も担っていく[24]



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ナビゲーションに移動検索に移動

The Okura Tokyo
オークラ プレステージタワー(左)と オークラ ヘリテージウイング(右) (2019年9月12日撮影)
オークラ プレステージタワー(左)と
オークラ ヘリテージウイング(右)
(2019年9月12日撮影)
ホテル概要
正式名称The Okura Tokyo
ホテルチェーンオークラ ホテルズ & リゾーツ
デベロッパーホテルオークラ[1]
設計虎ノ門2-10計画設計共同体(谷口建築設計事務所(谷口吉生)、大成建設一級建築事務所、観光企画設計社日本設計[1]
施工大成建設東京支店[1]
運営ホテルオークラ東京
階数地下1[1] - 41[1]
レストラン数7軒
部屋数508室
敷地面積20,442.44[1] m²
建築面積13,262.54[1] m²
延床面積180,905.72[1] m²
駐車場427[1]
開業1962年5月20日
改装2019年9月12日
最寄駅東京メトロ神谷町駅虎ノ門ヒルズ駅虎ノ門駅溜池山王駅六本木一丁目駅
最寄IC首都高速 霞ヶ関出入口飯倉出入口
所在地〒105-0001
東京都港区虎ノ門二丁目10番4号
位置北緯35度40分1.07秒 東経139度44分38.5秒座標北緯35度40分1.07秒 東経139度44分38.5秒
公式サイト公式サイト
補足構造 地下 鉄筋コンクリート造一部鉄骨鉄筋コンクリート造 地上 鉄骨造一部CFT造(柱)
施工期間 2016年6月 - 2019年7月[1]
テンプレートを表示
株式会社ホテルオークラ東京
Hotel Okura Tokyo Company, Limited
種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地日本
105-0001
東京都港区虎ノ門二丁目10番4号
設立2001年10月1日(新設分割)
*ホテル開業 1962年5月21日
業種サービス業
法人番号1010401045658 ウィキデータを編集
事業内容国際観光ホテル整備法によるホテル業経営
代表者成瀬正治(代表取締役社長)
資本金1億円
売上高203億2,800万円(2015年3月)
純利益▲57億6900万円(2021年03月31日時点)[2]
総資産105億2100万円(2021年03月31日時点)[2]
従業員数842人(2015年8月時点)
決算期3月
主要株主株式会社ホテルオークラ (100%)
関係する人物大倉喜七郎(創業者)
松井幹雄(元会長)
米谷雅彦(初代社長)
小川矩良(元社長)
清原當博(元社長)
外部リンクhttps://theokuratokyo.jp/
テンプレートを表示

ホテルオークラ東京(ホテルオークラとうきょう)は、東京都港区虎ノ門二丁目にある高級ホテル「The Okura Tokyo」を運営するホテルオークラの連結子会社。

ホテルオークラは、帝国ホテル東京ホテルニューオータニとともに、ホテルの「御三家」と称される。

歴史[編集]

現在の港区虎ノ門二丁目のあたる江戸見坂霊南坂汐見坂に囲まれた地域には、天保年間、川越藩・松平大和守の屋敷があった[3]明治期以降は政府が接収し、工部省地理寮などとして使われていたが、1878年(明治11年)大倉財閥の創始者である大倉喜八郎が購入し、邸宅を構えた[3]。広大な敷地内には喜八郎が蒐集した美術品を展示する私設美術館も設立され、それがのちに日本初の私立美術館「大倉集古館」となった[3]

喜八郎の長男である大倉喜七郎は、1922年(大正11年)から父の跡を継ぎ、帝国ホテル会長(のち社長)を務め、1924年(大正13年)大倉組頭取に就任し、川奈ホテル赤倉観光ホテルの創業を手掛けた[4]。戦後の公職追放財閥解体を経て喜七郎は大倉商事監査役に復帰し、帝国ホテル社長への返り咲きも渇望するが、それが叶わないと見るや[5]1958年(昭和33年)に資本金10億円で大成観光を設立[6]。邸宅跡に1962年(昭和37年)「ホテルオークラ」を開業した[3]

喜八郎が設立した有限責任日本土木会社を前身とする大成建設が施工を担った本館は[7]、高低差と法規による高さ制限とを適合させ、坂上にホテルエントランスを、坂下には宴会場エントランスを設けた地上6階地下6階の画期的な建築であり[7]、中心のエレベーターホールから三つの客室棟に伸びる三ツ矢式建築も、客室を効率的につくるのに、合理性の高いものだった[7]1973年(昭和48年)には別館も開業し2館体制となった[6]

1987年(昭和62年)の開業25周年を機に、運営会社は「大成観光」から「ホテルオークラ」に社名を改め、2001年(平成13年)には、所有・経営・運営の分離を図り、経営改革を推し進めるべく、ホテルオークラは「ホテルオークラ東京」を設立して当ホテルを分社化した[6]

本館建て替え[編集]

2014年(平成26年)5月、ホテルオークラは竣工して50年が経過し老朽化が顕著となった本館の建て替えを発表[8][9]2016年(平成28年)6月から建て替えに着手し、施工は本館建築時と同様に大成建設が担い、ホテルとオフィスを併設した地上41階地下1階の高層棟「オークラ プレステージタワー」と、ホテルとレストランのみの構成となる地上17階地下1階の中層棟「オークラ ヘリテージウィング」の2棟を新築し[7]、ホテル前庭となる「オークラ スクエア」も整備。さらにこの広場を創出するため、大倉集古館は曳家工事によって約6m移動することになった[10]。これら工事の完了を受け、2019年(令和元年)9月12日に再開業し、それを機にホテル名称は「The Okura Tokyo(ジ・オークラ・トーキョー)」へと改められた。

なお別館は「The Okura Tokyo」開業後も「ホテルオークラ東京 別館」として営業を継続していたが、新型コロナウイルスの影響で2020年(令和2年)5月から休業し、9月末で営業を終了した[11]。跡地は10月1日から2021年(令和3年)9月末までの予定で東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会に貸し出され、ボランティア用のユニホームの配布などに活用される[11]

開発にあたっては、建て替えの障害となっていた敷地全域の都市計画公園指定を、新制度「港区公園まちづくり制度」を適用することで、建て替えを可能とした[12]。新設した都市計画公園(港区立江戸見坂公園)を含む約2.6haの敷地の50%以上を緑地および広場として公開整備し、さらに地区計画指定と再開発等促進区を定め、この18万㎡の複合ビルは実現に至っている[12]

施設の概要[編集]

オークラプレステージタワー・オークラヘリテージウイング[編集]

客室は41階建ての高層棟オークラプレステージタワーに368、17階建ての中層棟オークラヘリテージウイングに140の計508室を設けた。付帯施設として宴会場19、レストラン5、バー2、フィットネスクラブ、ビジネスセンター、チャペル美容室、写真室等も備えた。周辺を坂道に囲まれているため、メインロビーは5階に設置され、宴会場エントランスは1階に置き[13]、宿泊客と宴会客の動線を分けるつくりとした。

プレステージタワーの8階から25階まではオフィスとなり、新設となった都市計画公園に面する3、4階のエントランスホールから目的階に向かう[12]。基準階貸室はワンフロア約2,200㎡、天井高は2,850mmとなっている[14]。なお、オフィス床は、ホテルオークラ、大成建設、新日鉄興和不動産(現:日鉄興和不動産)などが出資する特別目的会社が完成後に取得している。

両棟はフロアtoフロアのガラスで構成されたカーテンウォールにより、ホテルとオフィスの差異はシンプルな立面に溶け込み、さらに頂部のファーリングを一層際立たせ、凛とした姿によりタワーのシンボル性は高められた[12]。ただし、近辺も再開発(主に森ビル)が進み、タワーの客室もあまり眺めがよくない。

意匠を再現

旧本館ロビーなどはその芸術的評価から、建て替えに疑問を呈する意見も噴出し、米・ワシントン・ポストが建て替えに疑問を呈し[15]、英・モノクル誌では建て替え反対の記事も載り[16]、伊・ボッテガ・ヴェネタのデザイナーであるトーマス・マイヤーが発起人となって、同ブランド公式サイトに特設サイトが設けられ[17]SNSを通じて「#savetheokura」が発信された[18]。また取り壊しを惜しむと、旧本館ロビーは国内外の見学者で埋まるようになった[19]

そうした動静を踏まえ、ホテルオークラ側も、「ロビーは唯一無二の空間。ロビーがあることで差別化になると考えていた(広報担当者)」として[18]2015年(平成27年)10月、谷口吉郎の長男で建築家の吉生を設計チームに起用し、意匠を移設するなどして、ロビーは引き継ぐと発表した[18]。これによって、吉郎が設計した旧本館ロビーにあった古墳時代首飾りをイメージした照明「オークラ・ランターン」、日の光やわらかに塞くの葉紋様の木組み格子など、和の文様と装飾で彩られ高く評価された空間が吉生の設計のもと、プレステージタワーのロビーに再現され[20]、ヘリテージウイングのロビーには、旧本館平安の間で使用されていた京都西本願寺が所蔵する国宝三十六人家集の料紙」を模した壁面装飾が移設された[21][19]

*****

大倉 喜八郎(おおくら きはちろう、天保8年9月24日1837年10月23日) - 昭和3年(1928年4月22日)は、日本武器商人実業家。 明治大正期に貿易建設化学製鉄繊維食品などの企業を数多く興した。中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館帝国ホテル帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。従三位男爵。号は鶴彦。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%80%89%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E


Robert Mc Yang

大倉土木組和台灣的淵源可以追溯到1874年征台之役時開始。
1871年琉球八重山的69名島民遭遇颱風漂到台灣南部,其中有3人溺死,54人被牡丹社排灣族殺死,此即所謂「牡丹社事件」。因此,西鄉從道率領征台軍出征台灣,在四重溪石門跟排灣族開戰,不但未能折損對方一兵一卒,自己反倒有12名士兵戰死,561名罹患瘧疾病死,無功而退,此戰役稱為征台之役。當時大倉組社長大倉喜八郎和五百名軍伕親身參戰,完成輺重兵的任務,此為大倉組與台灣結緣之開始。甲午戰爭,台灣割讓,大倉喜八郎等渡海來台,在台北設立分店。爾後由基隆、台北間的鐵路開始,參與二層行溪埤圳工程、縱貫鐵路工程、桃園埤圳隧道工程、日月潭發電廠工程;同時也參與台北鐵路工廠,以及台灣銀行總行的建築工程,逐漸發展成台灣最大的土木建設公司,經常參加主要工程。
古川勝三著、陳榮周譯,2005,”鎚聲高響的嘉南平原”,《嘉南大圳之父-八田與一傳》,前衛,台北,p.113。

****

大倉久和飯店與台灣史:老闆大倉家是靠牡丹社事件發跡的。
現在台北最豪華的日本飯店,大概就是大倉久和吧。這家飯店或企業,與台灣史有一段有意思的淵源。
1874年6月1日,日本兵分三路進攻牡丹社。其中北路由水野遵率領,進攻女乃社。6月2日,女乃部落的牡丹人,全部都已跑光了,只有一位十二、三歲少女(後來高士佛耆老華阿財考證,是Pasedjam 家族的Vayayium),和她的老祖母,因行動不便被日本兵抓了。後來老祖母也逃了,於是這位十二、三歲少女成了日本征台三個月戰爭中唯一的「戰俘」。
6月7日,日本人把這位「戰俘」送回東京。(我推測是有向國人展示「台灣蕃人」之意)。被派來護送這位少女到日本的,是大倉喜八郎。他們搭著「明光丸」回日本。同船還有後來在熊本撃敗西鄉隆盛的谷干城少將,及二十一年後擔任日本第一任台灣總督的樺山資紀少校。
大倉喜八郎生於越後新瀉。他那時年約四十,是日本「蕃地事務局」的「特約」或御用商人。日本「台灣出兵」的補給輸送工作都交給他去做。於是他當然發了一筆戰爭財啦。大倉實業就是這樣發跡的。大倉飯店系列就是大倉喜七郎創立的。妙的是,喜七郎不是喜八郎的哥哥,而是喜八郎的兒子。
這位「阿台」,在東京接受了5個月的日本教育。後來日清和約訂定,11月27日又送回台灣,交還牡丹社。結果已經日化的阿台,竟與族人產生嚴重不合,跳崖身死。(華阿財先生的說法)。
2015年1月18日,我有幸見到阿台的家族後人。他們已經不住女乃社而搬到牡丹大社。
2015年3月6日,我走了好幾公里山路加涉水,到了女乃社。這𥚃自1874年6月2日後,已再無人到此。照片中隔著女乃溪的山上林中,就是女乃舊部落。目前仍有石板台階遺跡及石板屋遺跡。
我望著這些141年前的台灣史重要遺跡,心中有無限感慨。


沒有留言: