《一日一言 人類の知恵 》(桑原 武夫 ) (1956)
2017.4.16 陳健幫先生的贈書 (1994年,58刷)。
我說這本以前找人翻譯過,當時準備出書;陳兄說,這類書,應該自己寫。
為了報答陳兄的好意,我考慮弄個blog,每天一篇 (很多次都有這想法,常常自己打退堂鼓。因為本書的副標題"人類の知恵 ",很值得思考其取材.....)
一日一言 人類の知恵 岩波新書 1956
12月5日
北條 民雄
(大正3.9.22—昭和12.12.5∕西元1914.9.22—1937.12 .5)
日本小說家。19歲患染痲瘋病,住進收容機構後,開始提筆創作文學。以作品《間木老人》受到川端康成的注目;又在他的鼓勵下,根據自身經驗寫成《生命的初夜》,並且榮獲第二屆文學界獎。
最讓我感到不快的就是認命。有句話叫作「不死心」,這只能用在雖然已經認命,卻仍然無法讓自己接受這個想法的時候。不過,我把「認命」視為大敵。我每一天的努力,其實都是在和「認命」對抗。假如要認命的話,還不如去自殺;應該說,為了對抗認命,我甚至不辭自殺。世上絕對沒有以死取勝這種事,倒是能夠藉死來逃避戰敗。
節自〈近日雜記〉
宮崎滔天 | |
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宮崎滔天 | |
生年 | 1871年1月23日 |
生地 | 日本・肥後国玉名郡荒尾村 |
没年 | 1922年12月6日(51歳没) |
没地 | 日本・東京府 |
思想 | アジア主義 |
宮崎 滔天(みやざき とうてん、明治3年12月3日(1871年1月23日) - 大正11年(1922年)12月6日)は、日本で孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家、および浪曲師。欧州に侵略されているアジアを救うには、アジア文明の中心である中国の独立と中国民衆の自由が先決であり、それが世界平和に繋がるという信念のもと[1]、大陸浪人として活躍した。本名は寅蔵(もしくは虎蔵)。白浪庵滔天と号した。浪曲師としての名前は桃中軒 牛右衛門(とうちゅうけん うしえもん)。桃中軒雲右衛門の浪曲台本も書いた[2]。
《三十三年之夢》有中文本
12月6日
宮崎 滔天(宮崎 寅藏、宮崎 虎藏)
(明治3.12.3—大正11.12.6∕西元1871.1.23—1922.12.6)
日本明治時期的社會運動家與曲藝家。被啟發出自由民權思想後,開始對解放亞洲投以關注。奉日本外務省的命令與中國革命黨接觸,結識了孫文等人。於自傳《三十三年之夢》詳述辛亥革命的史料。
「人云支那國民乃尊古之國民,故無進步。此乃謬誤者也。……其尊古之因,無非求莫大進步者也。……吾願賭上一生,與我同志好友齊入支那內地,心屬支那,攬集天下英雄,期得奠定繼天立極之基。倘已復興支那以義而起,吾人再興印度、暹邏、安南之地,繼而遠救菲律賓與埃及。」……余乃因聞(台端之言)而振奮起舞,余長年疑問盡皆揭曉者也。余一生大業已確立者也。
節自《三十三年之夢》
与謝野晶子 | |
誕生 | 鳳志やう 1878年12月7日 日本・堺県和泉国第一大区 |
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死没 | 1942年5月29日(63歳没) 日本・東京府東京市杉並区荻窪 |
墓地 | 多磨霊園 |
職業 | 歌人、作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 堺市立堺女学校技芸科 |
ジャンル | 短歌 |
主題 | 恋愛感情・反戦思想 |
文学活動 | ロマン主義 |
代表作 | 『みだれ髪』(1901年) 『君死にたまふことなかれ』(1904年) |
与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさのあきこ、1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。 戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
12月7日
與謝野 晶子(鳳 志よう)
(明治11.12.7—昭和17.5.29∕西元1878.12.7—1942.5.29)
日本歌人及思想家。與丈夫與謝野鐵幹同為新詩雜誌《明星》的中堅作家。屬於浪漫主義派,洋溢著解放肉體與情感束縛的熱情。透過長歌與文章發表宣揚反戰思想。代表作為《亂髮》。
旅順港是否被我軍成功攻下,
這個彪炳戰勛與我毫無相關。
或許弟弟你根本從來不知道,
商賈的家規可沒一命抵一命。
我親愛的弟弟請千萬別死去!
未親自參與戰爭的天皇陛下,
命令臣民拋顱灑血奮勇殺敵,
背離人道而慘死於荒山獸徑,
宣詔這才是延譽四方的榮耀。
我深信仁心善德的天皇陛下,
斷無可能會有如此殘忍想法。
節自〈弟弟,你不能死〉
只要是年輕女性,任誰都厭惡戰爭。
節自〈公開信〉
12月8日
アジア・太平洋戦争(アジア・たいへいようせんそう、英: Asia-Pacific War)は、1941年12月8日から1945年8月15日にかけて大日本帝国が遂行した戦争の呼称。「太平洋戦争」や「大東亜戦争」に代わる呼称として提唱された[1]。この項目では「アジア・太平洋戦争」(アジア太平洋戦争)という呼称に関する議論について記述する。戦争の経過や使用兵器・人物などに関しては「太平洋戦争」を参照。また、呼称に関する議論については「支那事変」「大東亜戦争」も参照。
太平洋戰爭爆發
(西元1941.12.8)
1941年12月8日,日本偷襲美國珍珠港,揭開了太平洋戰爭的序幕,歐亞兩大戰場合而引爆了第二次世界大戰。1945年8月初,美國在日本投下兩顆原子彈;15日,日本宣布投降,劃下大戰的句點。
爸爸,有位名叫三好的中尉死掉了。他擔任(人體魚雷)潛到艦底卻沒能成功,結果被壓扁了。水從頭盔滲漏進去,等到過了兩個小時以後被拉起來時,全身變得軟趴趴的,臉上全是鮮血,早就死掉了。我們把回天艇譯注翻過來將水排光的時候,海水看起來是鐵鏽色的,想必裡面混有大量他的血吧。天上也下了雨。那天晚上,除了指揮官以外,大家都喝了酒。
節自《遙遠的山河──東大戰歿學生手記》
(譯注:自殺式潛艇。)
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