2017年3月26日 星期日

0327 2016 一 晴








安部公房 的 砂の女
台灣都翻成 沙丘之女
先後有鍾肇政、吳憶帆 (台北:志文,2007)、吳季倫 (台北:聯經出版公司,2016)。
上週,曹永洋學長送我們夫婦一本志文版。
我買本東京新潮文庫版。又在YouTUBE看有英文字幕的電影。

我是日文外行,不過,砂の女的日文有"押韻"。英文電影翻譯Woman in the Dunes (1964) ,其中的 the Dunes 也比"沙丘"清楚點"。

另外有許多有趣的細節,譬如說第2章的
"以8mm為中心,呈現出近似高斯誤差曲線那樣的曲線分布著。" (台北:志文,2007,頁16)
這是科學/統計學的陳述,也許日本或台灣的高中生學歷以上的讀者都懂得,不過,我沒把握。有趣的是,志文版的譯文有兩次用"曲線",後者是冗文。


我自己去查"錫石是一種礦物名,集合體呈不規則粒狀。主產於錫石石英脈和錫石硫化物礦床中,當原生錫礦床經風化破壞後,常形成砂礦。錫石是煉的主要原料。",其英文為Cassiterite is a tin oxide mineralSnO2




兩英譯本都有"大量(much/a great deal)遺忘",傅雷的【貝姨】缺此形容詞。

傅雷末章有幾處"雙關語",此英文本從缺。

 Yes, I looked at the doctor--see, like this,” and he turned
to show three-quarters face, like his portrait, and extended his hand
authoritatively--“and I said:

             “The slave was here,
  He showed his order, but he nothing gained.

“_His order_ is a pretty jest, showing that even in death Monsieur le
President de Montesquieu preserved his elegant wit, for they had sent
him a Jesuit. I admire that passage--I cannot say of his life, but
of his death--the passage--another joke!--The passage from life to
death--the Passage Montesquieu!”





 “那不行!我是大革命培养出来的,虽没有霍尔巴赫①的头脑,那种精神我是有的。现
在,哼!我更是摄政王派,灰火枪手派②,杜布瓦神甫派,黎塞留元帅派!我女人昏了头,
刚才派一个教士到这儿来,想说服我这个崇拜贝朗瑞③的人,跟小娇娘攀朋友的人,伏尔泰
跟卢梭的徒弟!……医生想探探我有没有给病魔压倒,问我:‘你见过神甫了吗?’我可是
照伟大的孟德斯鸠办法。我瞪着医生,瞧,就象这个样子,”他斜着四分之三的身子,威严
的伸着手,跟他画像上的姿势一模一样,“我回答他说:
      ……那小子曾经来到,
      拿出了他的命令,可是什么也没得到。
    “孟德斯鸠这里说的命令,是一个很妙的双关语,表示他临死还是才华盖世,因为人家
派去见他的是一个耶稣会教士!④……
我喜欢这一段,固然不是他活的一段,而是他死的一段。

啊!一段这两个字又是双关语!孟德斯鸠的一段!妙!”⑤    
  ①霍尔巴赫(1723—1789):唯物论哲学家和无神论者。
    ②火枪手是法国古代用火枪装备的步兵或近卫骑兵。其事迹可看大仲马的小说《三个火
枪手》。
    ③十九世纪著名歌谣作者,其作品脍炙人口。
    ④命令与教会的宗派在法语是同一字。
    ⑤文字的“一段”与生死的“一段”为双关语。









神經衰弱是一個在20世紀初受當時的西方醫學影響而傳入中國的術語[1],用以表示人體神經實際上的機械性衰弱。其英語「Neurasthenia」在早至1829年就有使用,且它不是後來的神經病學家喬治·米勒·比爾德( George Miller Beard )所使用的「神經質」(nerves),當中「神經質」較為隱喻。
神經衰弱在1869年首次用作精神病理學上的術語,其亦是由比爾德開創此一先例[2]。用以表示一種疾病,當中症狀包括疲勞、焦慮、頭痛、心悸,高血壓、神經痛,以及抑鬱。
神經衰弱目前仍是世界衛生組織ICD-10及中華醫學會精神病學分會的CCMD-3的一項診斷項目。但它不再包含於美國精神醫學學會的DSM中。

美國人被認為特別容易發生神經衰弱,為此人們為起美國人了一個別名——「Americanitis」(由威廉·詹姆斯推廣[3]


阿邦,明午14:30,我處有聊天會,歡迎參加:曹永洋來,楊誠、洪曜明、楊澤泉等先生一起來訪。



Proverbs 31:4New International Version (NIV)

It is not for kings, Lemuel—
    it is not for kings to drink wine,
    not for rulers to crave beer,

Proverbs 31:4King James Version (KJV)

It is not for kings, O Lemuel, it is not for kings to drink wine; nor for princes strong drink:


思高繁体聖經


4肋慕耳!清酒不宜於君王,醇酒不宜於公侯。



「利慕依勒啊,君王喝酒,君王喝不相宜」(箴言三十一:4)



"轉型正義因此是當權者及體制對事物的界定與行動,尤其新舊交替後出現新當權機器、在創造新的論述系統後,推動符合新趨勢的建制時,對舊體制的汰舊換新的動作。台灣已進入新時代(民主)20多年,許多舊時代的建制應該汰除,但遭到前清遺老們反改革的阻礙,目前陷入困境。蔡當局須知歷史站在改革的一邊,反動者最終會被社會前進的腳步踩爛的。 "




BBC - Life and Death in Herculaneum ( Prof. Wallace-Hadrill )
https://www.youtube.com/watch?v=3_wfTPdp3_k

MMXIII


ソリッド・シチュエーション

先生.
奈保子ちゃんは『SAW』とか『キューブ』という映画を観たことある?

奈保子.
いいえ。どういうジャンルの映画なんでしょうか?

先生. 
ソリッド・シチュエーション・スリラーというんですが、主人公たちが密室に監禁されたりして、閉塞状況の設定で、そこからどう脱出するか、というスリリングを描いたものなんですよ。
『キューブ』なんて、なんでそういう状況に陥ったかすらも説明されず、まさに巨大なキューブの中にいきなり閉じ込められてしまうんですが、やはり不条理感たっぷりで、観ている方も息苦しくなるんですよ。

奈保子.
それは『砂の女』の構造に似ていますね。

先生.
もしかすると、1960年代に、アメリカで翻訳出版されたのを読んだ脚本家がインスパイアされたのかもしれませんよ。

奈保子. 
文庫版『砂の女』の解説で、ドナルド・キーンさんが、やはり、一種のスリラーとしても読める、と仰ってました。

先生.
そうそう。でも、サスペンス、スリラーとカテゴライズするには文学的過ぎる、ってね(笑)。

奈保子.
単なる「危機からの脱出もの」であれば、なんらかのカタルシスがあって終わりでしょうが、『砂の女』では、脱出できるのに、あえて元の所に戻っていく、というのがスゴイです。

先生.
キーンさんが言うように、脱出劇がテーマなのではなく、男の「たましい」の変容の過程が作品の魂柱になっていますよね。

奈保子.
まさしく、ヴァイオリンの中に立っている表面板の振動を裏板に伝える一本の魂柱ですね。

先生. 
<ソリッド・シチュエーション>って言えば、私たちの人生そのものが「命の有限」という限界設定があるでしょ。「人の持ち時間は有限」と言ってもいい。だからこそ、人生には価値がある、と言えるんですね。

奈保子.
はい。そう思います。

先生.
それに、空間的にも縛られているでしょ。同時に、数箇所には存在し得ないものね。行ったり来たりはできるけど。でも、それにも限界はあるし。

奈保子.
職業なんかも、一旦きまってしまえば、そうそう柔軟に変更はできませんものね。

先生.
けっきょく、人間は与えられたものを活かして生きるよりないんです。

奈保子.
「置かれた場所で咲きなさい」という、渡辺和子先生の言葉がありましたね。

先生.
はいはい。“Bloom where God has planted you. ”でしょ。

奈保子.
「今、ここで」が大切なんですね。

先生.
考えてみれば、男に生まれてきた、女に生まれてきた、日本に生まれてきた…というのも、すべて、設定状況でしょ。

奈保子. 
不条理ながらも、<ソリッド・シチュエーション>だったからこそ、男もあのような状況で、溜水装置の研究に情熱を持てたり、「置かれた場所で咲く」ということを感得できたんでしょうね。

先生.
ニュアンスはちょっと違うけど、「艱難、汝を玉とす」とも言うでしょ。

奈保子.
困難な状況は、それに押し潰されさえしなければ、向き合う事によって、何らかの創造性を生み出すことになるんですね。

先生.
そういうことだね。


沒有留言: