2022年11月3日 星期四

喜惡内藤湖南,桑原武夫。川端康成的 富岡鉄斎收藏品 富岡 鉄斎Tomioka Tessai (1837 - 1924): 富岡鉄斎(泉屋博古館 1992 Sumitomo Collection ) :《茶寮名物冊頁》 、 『旧蝦夷風俗図』/ 蝦夷人図屏風、(川端康成收藏)。李欽賢〈富岡鐵齋—日本文人畫的絕響〉1993。賀新年:12月31日は富岡鉄斎の「栄啓期騎牛図」......禮拜天美術神遊

内藤湖南汉诗文集 / [内藤湖南著] ; 印曉峰點校

內藤湖南

 
7月10日反思 0710 2021

https://www.facebook.com/hanching.chung/videos/345034603685878

青木正兒全集 第2卷, 支那文藝論藪, 支那文學藝術考--

【黏連豐土 豐年70】
《豐年》雜誌70週年特刊即將發行!……
查看更多

Hanching Chung 的直播影片。
Ernest Hemingway : A Biography (2017《海明威傳》 ) ;《美國現代七大小說家》;By-Line Ernest Hemingway。海明威作品系列 (台北: 志文):《 勝利者一無所獲》226《沒有女人的男人》227《老人與海》228、《蝴蝶與坦克》241《海明威短篇傑作選》385。《海明威傳》 1981/1990;《爸爸海明威》。董橋︰饗宴《流動的饗宴》


富岡 鉄斎Tomioka Tessai (1837 - 1924): 富岡鉄斎(泉屋博古館 1992 Sumitomo Collection  )   :《茶寮名物冊頁》 、 『旧蝦夷風俗図』/ 蝦夷人図屏風、(川端康成收藏)。李欽賢〈富岡鐵齋—日本文人畫的絕響〉1993。賀新年:12月31日は富岡鉄斎の「栄啓期騎牛図」.....
https://www.facebook.com/hanching.chung/videos/681234319593304


從2020.12.30 到2022年3月12日,我對富岡 鉄斎Tomioka Tessai (1837 - 1924)的了解來自兩資料:

富岡鉄斎(泉屋博古館,缺出版年資料) 金關恕教授2021年10月7日贈臺灣大學圖書館


泉屋博古館図録一覧

https://sen-oku.or.jp/publish/
缺出版年資料

蔵品図録 泉屋博古 近代日本画

富岡鉄斎、木島櫻谷など館蔵の近代日本画71点をカラー収録。

刊行年
2017年
価格(税込)
2,800円
重量
950g
サイズ
A4版
ページ数
カラー160P

---
川端康成的 富岡鉄斎收藏品


----
2020.12.31禮拜天美術神遊 (15) :富岡 鉄斎Tomioka Tessai (1837 - 1924):  賀新年:12月31日は富岡鉄斎の「栄啓期騎牛図」......『旧蝦夷風俗図』/蝦夷人図屏風、川端康成

https://www.facebook.com/hanching.chung/videos/4066042460073197

賀新年





12月31日は富岡鉄斎の「栄啓期騎牛図」になっている。


『一日一言―人類の知恵―』 | 筆記~書の虎の巻

〈榮啟期騎牛圖〉局部畫影

富岡 鐵齋

(天保7.12.19—大正13.12.31∕西元1837.1.25—1924.12.31)



日本明治大正時代的畫家與儒學家。學識淵博,終生自詡為學者,作畫只是陶冶心性。畫法以中國的南宗為基礎,融合了各大派別的畫風,創造出獨具特色的畫境。


栄啓期3えいけいき 
中国代の人。列子の第一天編によると、栄啓期はこの世の楽しみとして、人間に生をうけたこと、男として生まれたこと、歳90まで生きたことの三つを説いたという。人・男・寿の三つを三楽という。

****

仙縁奇遇図 1919年 紙本着色


艤槎図 紙本着色 . 1924 大正3年. Tomioka Tessai (1837 - 1924) 富岡 鉄斎 185 Embarkig on a Raft by Tomioka Tessai 

***

鉄斎美術館

http://www.kiyoshikojin.or.jp/tessai_museum/


鉄斎美術館「聖光殿」は、清荒神清澄寺第37世法主光浄和上の理想とその意志を継承して、半世紀以上にわたって蒐集されてきた画聖、富岡鉄斎の作品を広く公開展示するために第38世法主光聰和上が昭和50年(1975)4月、清荒神清澄寺の境内に開館しました。

正面玄関の扁額「聖光殿」と門標「鉄斎美術館」の文字は、書家森田子龍の揮毫によるもので、左右の前庭には鉄斎翁ゆかりの地、貴船、鞍馬、天竜、伊予の各名石を配し、また、岐阜県根尾村から分植された薄墨桜が色どりを添えるなど、美術鑑賞の殿堂にふさわしい雰囲気をかもし出しています。

清荒神清澄寺所蔵の鉄斎作品は絵画、書をはじめ、鉄斎が絵付を施した器物、或いは手造りの陶器など器玩と呼ばれるものや、先人の構図、筆法などを学びとるために鉄斎が摸写した粉本など多岐にわたり、晩年の傑作を中心に2,000余点を数えます。

尚、入館料の全額は、美術図書購入基金として宝塚市に寄付し、宝塚市立中央図書館内に「聖光文庫」を設けて、豊富な美術関係図書を収集し、当館の鉄斎作品の展示と併せ、地域文化の向上発展の一助となることを念願しています。

現在、鉄斎美術館「聖光殿」は、資料整理のため休館しています。展覧会は鉄斎美術館別館「史料館」でお楽しみいただけます。

****

李欽賢〈富岡鐵齋—日本文人畫的絕響〉,收入《日本美術的近代光譜》,台北:雄獅圖書,1993,132~35
***

維基百科,自由的百科全書

跳至導覽跳至搜尋

富岡鉄齋像
富岡鉄齋家小道紀念碑(京都市上京區・map)

富岡 鉄齋 (とみおか てっさい;1837年1月25日 - 1924年12月31日),生於京都(三條通新町東),字無倦,號鉄齋,是日本明治大正年間的文人畫家、儒學學者。被謳歌為日本最後的文人[1]。別號鉄人鉄史鉄崖等。

生涯[編輯]

文久元年(1861年),前往長崎遊學,接受長崎南畫派的祖門鉄翁、木下逸雲、小曾根乾堂等人的指導。

座右銘是「讀萬卷書、行萬里路」,並在日本各地旅行而得到實踐[2]。明治7年(1874年),與松浦武四郎等人的交流而到北海道旅行,在那時便描繪了有關阿伊努人風俗題材的代表作「舊蝦夷風俗圖」。

明治二年(1869年),成為私塾立命館的一名教師。

明治26年(1893年),成為京都市美術學校 的教師。

代表作品[編輯]

  • 「阿倍仲麻呂明州望月圖」、「円通大師吳門隱棲圖」(1914年),日本國重要文化財辰馬考古資料館藏。
  • 「二神會舞圖」,東京國立博物館藏。
  • 「舊蝦夷風俗圖」(1896年),東京國立博物館藏。
  • 「富士山圖屏風」(1896年)
  • 「妙義山·瀞八丁圖屏風」(1906年)
  • 「不盡山頂全圖」
  • 「蘇東坡圖」
  • 「河內千早城圖」
  • 「武陵桃源圖」
  • 「瀛洲遷境圖」
  • 「阿倍仲麻呂在唐詠和歌圖」
艤槎圖,是作者89歲時的作品

出版物[編輯]

  • 畫集《鉄齋畫賸》(1913年)
  • 畫集《百東坡圖》(1922年)
  • 畫帖《米壽墨戲》(1923年)
  • 印譜《無量壽佛堂印譜》
  • 文集《富岡鉄齋、大田垣蓮月》,近代浪漫派文庫2,新學社(2007年)
  • 《富岡鉄齋·圖錄編·資料編》,京都新聞社(1991年)

家族[編輯]

他的長子是歷史兼考古學家富岡謙蔵

參考資料[編輯]

  1. ^ 產經新聞. 日本畫家富岡鐵齋14幅未發表作品被發現. 環球網. [2018-10-09].
  2. ^ 富岡鐵齋. 中國大日科全書智慧藏. [2018-10-09].

外部連結[編輯]

 維基共享資源中與富岡鉄齋相關的分類




****

幼少期から少し耳が不自由だったもののその頃から勉学に励み、富岡家の家学でアル石門心学をはじめとし、岩垣月洲らには漢学・詩文、大国隆正には勤王思想などを学んでいきます。
鉄斎には座右に銘があり「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践して日本各地の旅をしました。北海道の旅をした際には、アイヌ族の風俗を題材にした「旧蝦夷風俗図」を描いており、これは鉄斎の中でも有名な代表作となっています。


鉄斎の作品は、鉄斎が歳を重ねるごとに次第に認められていくようになっています。
京都青年絵画研究会展示会の評議員をはじめとし、京都美術協会委員や京都市立日本青年絵画共進会顧問など順当に勤めました。1897年の歳には田能村直入(日本画家)らと日本南画協会を発足させ、南画の発展にも貢献しようとしていたそうです。
鉄斎は数多くの展覧会で審査員を務めましたが、鉄斎自らが一般の展覧会に出品することはあまり多くはありませんでした。


最後の文人と謳われていた鉄斎は、自分は画家が本業ではなく、あくまで儒学が本職だと考えており、「自分は意味のない絵は描かない。自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」というのが、口癖だったそうです。
大和絵や大津絵、琳派の様式を加えた鉄斎の絵は独自の色の放っており、80を過ぎて更に色彩溢れる大作を描き上げていきました。



【富岡鉄斎・代表作】

  • 『旧蝦夷風俗図』
  • 『二神会舞図』
  • 『富士山図屏風』
  • 『阿倍仲麻呂在唐詠和歌図』
***

富岡鉄斎「旧蝦夷風俗図屏風」(右隻)東京国立博物館蔵
イオマンテ(クマ送りの儀礼)が描かれており、物語の流れとしては、画面中央右隅にいる5、6人の男たちによる「イナウ削り」から始まり、ついで画面下部にイオマンテのクライマックスである「クマの檻出しと矢の射掛け」「クマの挟首」の場面が描かれ、そして画面上部右に「クマの霊へのカムイノミ」、左に「輪舞」となり、中央右の「酒宴」へと続いている。

最後の文人画家と称される富岡鉄斎(1837-1924)は、京都に生まれ、若いころから学問を志し、私塾を開き、各地の神社の神官を歴任していたが、兄が没したために京都に戻り、以後89歳で没するまで、文人として精力的に書画制作を続け、独創的なスタイルを作り上げた。また、生涯に渡ってほとんど休むことなく旅に出かけ、北海道から九州まで日本中のほとんどの地域を踏破しており、北海道には明治7年に渡っている。

掲載の「旧蝦夷風俗図屏風」は、アイヌの風俗を題材に明治29年に制作されており、右隻には「イオマンテ」が描かれている。イオマンテとは、アイヌにとって最も神聖で重要な「クマ送りの儀礼」のことで、人間の世界(アイヌモシリ)に遊びに来たクマの神を、神々の世界(カムイモシリ)に送り返す一連の儀式のことである。クマの神は、人間の世界に来る時に黒い毛皮を身にまとってたくさんの肉や薬をおみやげに携えてくる。そのクマの神が人間の世界を堪能して神々の世界に帰る時、人間の手で黒い毛皮の扮装を脱がせてあげるのである。

東京國立博物館富岡哲齋“前江戶風俗地圖”(右船)收藏
繪製了Iomante(送熊的儀式),故事的流向是在屏幕中心右上角由5或6個人“刮鬍子”開始,然後是Iomante的高潮”繪製了“庫瑪的箭靶射擊”和“庫瑪的脖子”的場景,屏幕的右上角是“熊神的熊神”,左側是“圓舞”,右側是“清酒派對”它繼續。

據說是最後一位文學家的富岡哲齋(1873年至1924年)生於京都,他從小就想讀書,開了一所私立學校,並在各種神社中擔任牧師,但由於他的兄弟去世了。回到京都後,直到89歲去世,他繼續以文學藝術家的身份努力工作,創造了原始風格。此外,他一生幾乎無休止地旅行,從北海道到九州遍曆日本大部分地區,並且在明治時代的第7年來到北海道。

1897年生產了以“阿伊努人(Ainu)風俗”為主題的“ Old Ezo Customs Figure”,並在右船上繪製了“ Iomante”。伊奧曼特(Iomante)是阿伊努(Ainu)最神聖,最重要的“分娩儀式”,是一系列將人類世界(Ainu Mosiri)的熊神送回眾神(Kamui Mosiri)的儀式。是的。當熊神來到人類世界時,他穿著黑色的皮毛,並帶來了很多肉類和藥品作為紀念品。當熊神享受人類的世界並回到神的世界時,他將用人類的雙手脫下黑色皮草服裝。

鉄斎が北海道を訪れたのが明治7年で、この屏風が制作されたのが明治29年と間が開いており、さらに北海道での調査期間もわずかだったことから、この屏風に描かれているものすべてを鉄斎が調査、取材したとは考えにくく、基本的には友人である松浦武四郎の『蝦夷漫画』によるものが大きく、それに村上島之允の『蝦夷島奇観』、谷元旦『蝦夷紀行』などの書物から情報を得て、鉄斎流にアレンジして描いたものと考えられている。

富岡鉄斎(1837-1924)
天保7年京都生まれ。通称は猷輔、のちに百錬、字は無倦。別号に鉄崖、鉄道人などがある。幼いころから石門心学を学び、15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学んだ。18歳頃に、女流歌人・大田垣蓮月に預けられ薫陶を受け、翌年には窪田雪鷹、大角南耕、小田海僊、浮田一蕙らにも学んだ。文久元年には長崎に遊学し、祖門鉄翁、木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。文久2年に私塾を開き、湊川神社、石上神社、大鳥神社の神官を歴任するが、兄の死に伴い、明治14年京都に戻り、以後没するまで書画制作を続けた。明治27年から京都市美術学校教授を37年間つとめた。明治29年には京都の南画家たちと日本南画協会を結成、大正6年帝室技芸員となり、大正8年には帝国美術院の会員になった。大正13年、89歳で死去した。

鐵齋在1897年訪問了北海道,並於1897年生產了這種燈籠,由於在北海道的調查期很短,因此使用了這種燈籠。 Tetsusai不太可能對那裡的一切進行調查和採訪,它基本上是基於他的朋友Takeshiro Matsuura的“ Ezo Manga”以及村上Shimanosuke的“ Ezojima Kikan”和Tani Motodan的“ Ezo”。據認為,該信息是從諸如“旅途”之類的書籍中獲得的,並以Tetsusai風格排列的。

富岡鐵齋(1837-1924)
天寶七年生於京都。這個角色被稱為Kosuke(後來稱為Hyakuren),這個角色一無所獲。另一個問題包括鐵崖和鐵路人。他從很小的時候就開始學習石門Shingaku,從15歲開始,他就學習了民族研究和來自高國小國的國王制職的念頭,並從岩垣築壽等人那裡學習了中國學,Yomei學和詩歌。在18歲左右,她被委託給女歌手,Rotasuki Otagaki,並獲得了Kaoru的陶器;次年,她從Yukitaka Kubota,Minami Ogaku,Kaiko Oda和Kazuto Ukita學習。在文久的第一年,他去了長崎,並接受了蘇門哲夫,木下鬱久和犬井小鬆的指導。他在文久2開設了一所私立學校,並擔任過港川神社,石神社和大鳥神社的神父,但在其兄弟去世後於1887年返回京都,並繼續製作書法直至去世。自1897年以來,他已經在京都市立藝術學校擔任教授37年。 1897年,他與京都的南部畫家組建了日本南部繪畫協會,並於1918年成為帝國技師,並於1918年成為帝國美術學院的會員。他於1918年去世,享年89歲。


****

 富岡鉄斎の「蝦夷人図屏風」、金屏風の蝦夷の風俗を描いた絵で、水墨画の鉄斎としては、とても珍しい。一時偽者と疑われていたらしい。金屏風がはではでしくて、敬遠してしまうが、じっと見る。蝦夷の人達があまり ...


 京都文化博物館に「川端康成と東山魁夷」展を見に行った。今年初めての展覧会である。先週、神戸市立博物館の浮世絵名品展に行ったのだが、1時間待ちと言われて、我慢ならず見ずに帰ったので、今年初となった。川端康成と東山魁夷は、とても親交があったみたいで、それにちなんでということらしい。5年前にここでの「没後30年 川端康成 文豪が愛した美の世界」展を見たことがあるし、東山魁夷の回顧展も見たことがあるので、どうしようかと思ったが、まあ行こうと思った。京都文化博物館は、外観は赤レンガで古風なのだが、中は7階建ての近代的な造りである。金がかかっていそうで、大赤字じゃないのかなあ。
 さて、展覧会であるが、入っていきなり、浦上玉堂の国宝「凍雲篩雪図」である。イキナリはないだろう。徐々にテンションがあがってから見たいのに。イキナリ目玉の絵を見せて、お客の気を引こうという趣向で、最近の展覧会でよくみかけるのだが、悪い傾向だ。そのせいか、「凍雲篩雪図」があまり良く見えない。5年前には良く見えたし、岡山県立美術館での‘06の「浦上玉堂」の大回顧展でも素晴らしかったのに。次に、池大雅・与謝蕪村の国宝「十便十宜図」。文句なく素晴らしい。蕪村の宜秋がいい。この「十便十宜図」は、何回か見たのだが、まとめて見れないかなあ。帳面になっているので、ページをめくらないと次の絵を見れないので、どうしようもないのだが。さて、東山魁夷の絵である。山種美術館でも見た「年暮る」、美しい夜の雪景色である。現代の美しくもない京都の町並みを、屋根だけを描くことによって、青白く描くことによって、美しいものにしている。手前に川の堤防が見え、川べりに車が一台止まっているのもいいし、家の窓から、少し明かりが漏れているのもいい。蕪村の「夜色楼台図」を連想させる。当然意識しているのだろうが。この絵もいいのだが、隣の「北山初雪」が、圧倒的に美しい。山麓の真っ直ぐな北山杉に初雪が降りかかっている。雪の白の陰影と薄緑色の枝の緑の配色が美しい。川端康成の解説文が掲示されていて、地元の林業者に聞くと、こういう風景は、年に二三日しか見られないそうで、魁夷はこういう風景を通ってしっかりと見て、描いている、と。なるほど。東山魁夷は、写生の人である。京都の風物を描いた絵や「冬華」のような少し幻想的な絵もあったが、つまらない。魁夷の絵でいいと思うのは、自然の写生に徹した絵だった。勿論、自然をそのまま写しているのではなかろう。自然の美を純化していると思うが、写生の末の純化、それに成功した絵に美しさがあり、魁夷の個性が現われていると思う。他には、「青い沼」、「緑のハイデルベルク」、「秋深し」、「樹雨」が気に入った。富岡鉄斎の「蝦夷人図屏風」、金屏風の蝦夷の風俗を描いた絵で、水墨画の鉄斎としては、とても珍しい。一時偽者と疑われていたらしい。金屏風がはではでしくて、敬遠してしまうが、じっと見る。蝦夷の人達があまりうまく描けているとは思わない。しかし、構図に豪快さが現われているように思う。右隻に右奥から左手前に道があり、祭りで人々が手前に向かってくる。左隻はそれを受けて、手前に組み立て中の家があり、その向こうに大きく海が広がっている。なぜ、金屏風なんかに描いたのかなあ。金屏風だと、デザイン的に、装飾的にならざろうえないような気がするのだが。それにしても、川端康成は、いい絵を持っていたのだなあと感心する。国宝2点のみならず、いい絵やいい工芸品が多い。一作家がよく買えたものだ。
 写真は、東山魁夷の「北山初雪」。

沒有留言: