曲水の宴(きょくすいのうたげ(えん)、ごくすいのうたげ(えん))は、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事である。流觴(りゅうしょう)などとも称される。略して曲水、曲宴ともいう(『広辞苑』第2版)。
なお、「水上から流れてきた盃が自身の前を流れるまでに歌を詠む」とする解説が広く流布されているが、これは曲水の宴が行われなくなった室町時代の『公事根源』などの記述が発祥となったとみられており、平安時代の曲水の宴の様子を描いた記録[1]を見てもこうした事実を裏付けるものはなく、事実ではなかったと考えられている[2]。
Kyokusui-no-Utage: Poetry with Classic Heian Elegance
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- 4月29日:城南宮(京都府京都市)
11月3日:城南宮
莊嚴兩次修禊雅聚:北溝1964;流水音1973
「流觴曲水」源於上巳節這一古老風俗。上巳指夏曆三月的第一個巳日。周代有水濱祓禊之俗,祓禊指洗濯身體以除去凶疾的一種祭祀儀式,朝廷指定專職的女巫掌管此事。《詩經·鄭風·溱洧》記載有鄭國陽春三月祓禊的情景。漢代時三月上巳確定為節日。《後漢書·禮儀志》載:「三月上巳,官民皆禊於東流水上,洗濯祓除,去宿垢,為大潔。」魏晉以後上巳改為三月初三,成為一個重要節日,洗濯身體的風俗逐漸演化成臨水宴客和郊外踏春,又有了臨水浮卵和臨水浮棗等習俗,再演變成流觴曲水。
東晉永和九年(353年)三月初三的上巳節,會稽內史王羲之偕親朋謝安、孫綽等四十二人,相聚會稽山陰(今浙江紹興)的蘭亭,修禊祭祀儀式後,舉行流觴曲水的遊戲,四十二人人飲酒詠詩,所作詩句結成了《蘭亭集》,王羲之為該集作《蘭亭集序》。從此流觴曲水,詠詩論文,飲酒賞景,歷經千年而盛傳不衰。
永和9年(353年)3月3日、書聖と称された王羲之が蘭亭で「曲水の宴」を催したが、その際に詠じられた漢詩集の序文草稿が王羲之の書『蘭亭序』である[4]。
- [名] 酒杯、酒器。如:「銜觴賦詩」。《韓非子.十過》:「平公提觴而起為師曠壽。」《聊齋志異.卷一.嬌娜》:「又命以巨觴行酒,三更始罷。」
- [動] 飲酒,或勸人飲酒、敬酒。《呂氏春秋.恃君覽.達鬱》:「管仲觴桓公,曰:『暮矣!』」宋.范成大〈九月三日宿胥口始聞雁〉詩:「把酒不能觴,送目問行李。」
蘭亭序內容[編輯]
豎版對應原文[編輯]
永和九年嵗在癸丑暮春之初㑹 |
- 註:以上漢字取字時儘可能接近原文字體。
加標點後的原文[編輯]
永和九年,歲在癸丑,暮春之初,會於會稽山陰之蘭亭,脩稧(禊)事也。羣賢畢至,少長咸集。此地有崇山峻領(嶺),茂林脩竹;又有清流激湍,映帶左右,引以為流觴曲水,列坐其次。雖無絲竹管弦之盛,一觴一詠,亦足以暢敘幽情。
是日也,天朗氣清,惠風和暢。仰觀宇宙之大,俯察品類之盛。所以遊目騁懷,足以極視聽之娛,信可樂也。
夫人之相與,俯仰一世,或取諸懷抱,悟言一室之內;或因寄所託,放浪形骸之外。雖趣(取/趨)舍萬殊,靜躁不同,當其欣於所遇,蹔得於己,怏然自足,不知老之將至;及其所之既倦,情隨事遷,感慨係之矣。向之所欣,俯仰之間,已為陳跡,猶不能不以之興懷;況脩短隨化,終期於盡。古人云:「死生亦大矣。」豈不痛哉!
每攬(覽)昔人興感之由,若合一契,未嘗不臨文嗟悼,不能喻之於懷。固知一死生為虛誕,齊彭殤為妄作。後之視今,亦由(猶)今之視昔,悲夫!故列敘時人,錄其所述,雖世殊事異,所以興懷,其致一也。後之攬(覽)者,亦將有感於斯文。
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